昭和44年09月24日 夜の御理解
理屈抜きにありがとうならせて頂く稽古ですからね矢張り、素朴な信心が求められるのもそういう訳だと思います。もうとにかく理屈抜きにして、今日は久留米の櫛原教会の開教記念式が御座いました。開教記念式は必ず私がおかげを頂くんですけれども、矢張り久留米の開教というか、久留米の石橋先生が、久留米に道を開かれたというのがご縁で、大坪の家は御神縁を頂いたので御座いますから。
是だけ私からおかげを頂こうと思うて毎日お参りをさして頂くのです。只訳はそれだけなんです。それだけでお参りさして居た台ておる自分が有難い。もうお祭りが立派であったとか、お話しがよかったと言う様な事でなからなければ、有難くなられんと言う様な事ではやっぱりいけない。それだけの事でお参りが出来ておる自分が有難い、直接の出社なんかというのは随分ありますけれども。
矢張りお参りが出来ない様な人達あるでしょうけれども、理屈ではないのです、夜のご祈念を奉仕させて頂く。心行くまで神様にお礼を申させて頂いて、例えば小笙楽など奏上さして頂いていますと、もう理屈抜きにしてそれが有難い、お勤めじやあない、勤めにならんというのじゃない、もう理屈抜きにしてご祈念をさして頂いておると云う事が有難い、いやしみじみ信心さして頂く者の幸せを感ずる。
そういう私は、あの素朴な信心が、金光様のご信心にはどうでも必要である、と私は思うです。どうぞひとつおかげを頂いてから、又ご祈念せにゃならん、又お参りせにゃならんというのでなくてもうその理屈抜きにして、いうなら朝の原さん方のようであると、朝のご祈念がに参り夜の御祈念に参っとられる、その事が有難いと感じさせて貰えれればそれでいいんじゃないでしょうか。
ご祈念をしておると云う事がさして頂いていると云う事が有難い、もう他にはなんにも要らない。そこに信心さして頂く者の信心、幸せを感じれれる処までおかげを頂きたいと思うね。信心には理屈は要らない、とにかく、有難くどういう中からでも有難くならせて頂けばいい。どうしたからこう有難くなったというじゃなくてどんな中からでも有難くなれれると云う事が私はお道の信心だと思うですね。
どうぞ。